トルコ東部のカルスから42キロメートル東にある世界遺産アニ遺跡(The Ruins of Ani)。
アニはアルメニアとの国境になっているアルパ(Arpa)川の西岸に広がる遺跡群です。東はアルパ川、西はアラジャ(Alaca)川とボスタンラル渓谷に囲まれた台地にある天然の要塞のため、かつてシルクロードの要所として発展した古代都市でした。
特に961~1045年にはバグラトゥニ朝(Bagratid)アルメニアの最後の首都として栄えました。
当時は「1001の教会を持つ都市」「40の門をもつ都市」などと呼ばれ、最盛期には10万人以上の人口を抱えるまでに発展したほど。
実際の教会の数は50程度ですが誇張されて1001。
それはさておき、あえてキリ番にしないところにセンスを感じる…(笑)
さらに992~1441年の間はアルメニア使徒教会の総主教座もアニに置かれるなど宗教的に重要な場所でもありました。
1045年にバグラトゥニ朝が滅亡してからも、さまざまな民族が支配してきたアニ。現在は人は住んでいませんが、その激動の歴史を今に示すかのように、アルメニア系のみならずイスラム系やトルコ系などの遺跡が今も数多く点在しています。
建築素材として主に使われているのは、地元で産出されるトゥファ(Tufa)で作られたレンガ。そのため様々な時代や宗教の建築物が混在している割には、景観にある種の統一感が生まれています。
火山灰が堆積して固まった岩石。
比較的切り出しやすく、時間の経過とともに丈夫になる性質がある。多孔性があるため、トゥファで建てられた建物の内部は、夏も冬も適度な温度に保たれる。
アルメニアで古くから使われている建材で、産地によって赤色、黄色、黒色など色が異なる。
とはいえアニは地政学的に重要な位置にあったことから周辺各国の争いが絶えなかったため、現存する遺跡の多くは損傷が激しいのも特徴。
まさに「朽ち果てた」と呼ぶにふさわしい景観ですが、そこに“妙味”を見いだせる方にはオススメの観光スポットでした!
本記事はそんなアニ遺跡を120%楽しむための観光ガイドです。この記事を読むことで、
- アニ遺跡の中の見どころ
- 複雑すぎるアニの歴史の流れ
- アニ遺跡までのアクセス情報(カルスから)
を把握することができます。すべて網羅して書かれている記事は少ないので、ぜひご参考にして下さい。
アニの激動の歴史【10世紀後半~11世紀前半が最盛期】
アニは周辺の様々な帝国から支配されてきました。アニ遺跡の観光を充実させるためにも、まずはその変遷をざっくりと把握しておきましょう。
おおまかな年表は次の通りです。ポイントとなる出来事については太字にしておきました。
- 紀元前5000年頃?~人の定住
- 5世紀:カムサラカン家のアルメニア侯国の領土
- 9 世紀初頭まで:カムサラカン家のかつての領土であったアニを含むシラク地方(とアルシャルニク地方)が、バグラトゥニ家の領土に編入される
- 885年:バグラトゥニ朝アルメニアが成立(ビザンツ帝国とアッバース朝からバグラトゥニ家の首領アショット1世に王冠が送られ、アルメニア国王として戴冠)
- 961年:バグラトゥニ朝アルメニアの王アショット3世によって首都がアニに移される
- 992年:アルメニア使徒教会の総主教座がアニに移される
この10世紀後半から11世紀前半、スムバト2世(SmbatⅡ, 977–89)と息子ガギク1世(GagikⅠ, 989–1020)の時代がバグラトゥニ朝とアニの最盛期です
- 1045年:ビザンツ帝国に支配される(バグラトゥニ朝の滅亡)
- 1064年:セルジューク朝トルコの2代目スルタン、アルプ・アルスラーンに支配される
- 1072年:セルジューク朝からクルド人の王国のシャッダード朝に売却される
- 1199年:グルジア王国のタマラ女王によって支配される
- 1201年:グルジア女王が統治権を与えたザカリアン家(ザカリアン朝アルメニア)がアニを統治
- 1226年:モンゴル帝国の1度目の襲来(包囲されるも防衛に成功)
- 1236年:モンゴル帝国の2度目の襲来(占領され、略奪と虐殺に遭う)
- 1319年:地震により大被害を受ける
- 1360年:黒羊朝に支配される
- 1380年代:ティムール帝国に支配される
- 1430年:白羊朝に支配される
- 1441年:アルメニア使徒教会の総主教座がアニから現在のアルメニア共和国の首都エレバンに移される
- 1500年:サファヴィー朝に支配される
- 1579年:オスマン帝国に支配される
- 1605年:地震により大被害を受ける
- 1735年まで:最後の修道士が去り、アニは完全に放棄される
- 19 世紀前半:ヨーロッパの旅行者がアニを再発見
- 1878年:露土戦争後のベルリン条約によりロシア帝国に編入される
- 1918年:第一次世界大戦末期にオスマン帝国に支配される
- 1920年:終戦にともないアルメニアに支配される
- 1921年:トルコが奪還
激動すぎてややこしいですが(笑)、最低限以下の3点を把握しておけばOKです!
- アニの最盛期は、10世紀後半~11世紀前半のスムバト2世と息子のガギク1世の時代
- 992~1441年にはアルメニア使徒教会の総主教座が置かれていた
- 1064年にトルコ系のセルジューク朝に支配されてから衰退していく
アニ遺跡の見どころ【ルート順(時計回り)にご紹介】
アニ遺跡は城壁に囲まれており、すべての“見どころ”はこの城壁内にあります。40リラで入場チケットを購入し、入口から中へ入りましょう。
この章では入口から時計回りのルートをたどった場合の見どころを、ルートの順番に解説していきます。
城壁外にあって接近できないために遠くから眺めるだけの遺跡もご紹介しています。これらも把握しておけば“取りこぼし”は防止できるはず!
城壁と入口(獅子の門)
アニを取り囲む城壁。4.5キロの長さを誇り、7つの門があります。
最初の城壁ができたのは964年。アニに首都を移したバグラトゥニ朝の王アショット3世の治世でした。さらにスムバト2世の治世下の978年には堅牢な二重の城壁となりました。
入口は「獅子の門」と呼ばれていますが、これは入口を入ってすぐの城壁にライオンのレリーフが掲げられているためです。
聖救世主教会(The Church of The Holy Savior / The Church of Redeemer)
1035年にバグラトゥニ朝の王スムバト3世により建てられた聖救世主教会。
建設の目的は、アブルガリブ・パフラヴニ王子がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを訪れた際に手に入れた「聖十字架(キリストが磔にされた十字架)」の断片を収めるためだったようです。
1930年代に落雷により東側が半壊してしまいました(1950年代とする説明もあり)。
小ハマム(公衆浴場)
セルジューク朝時代の11世紀末に作られたといわれるハマム(トルコの公衆浴場)。
小ハマムとあるように遺跡内には大ハマムもあるようですが、どこにあるのかわかりませんでした(笑) アニ遺跡について書かれた他のブログでも大ハマムは見当たらなかったとあるので、保存状態は悪いのかもしれません。
ティグラン・ホーネンツ教会(Tigran Honents Church)
アルメニアにキリスト教をもたらした開明者(Illuminator)である聖グレゴリウスに捧げられた教会。ティグラン・ホーネンツという裕福な商人によって、1215年に建てられました。
1251年には西側のナルテックスが、13世紀後半にはナルテックスの北に礼拝堂が増築されました。
キリスト教建築において、正面入口と身廊本体の間に設けられる広間を指す建築用語
内部には受胎告知などの「イエス・キリストの生涯」と、「聖グレゴリウスの生涯」をテーマにしたフレスコ画が描かれています。
アニ遺跡の中で最も充実したフレスコ画なのですが、残念ながらかなり劣化してしまっています。
アニ大聖堂(The Cathedral of Ani / Fathiye Mosque)
アニ遺跡の中で最大のアニ大聖堂。
992~1441年の約450年にわたってアルメニア使徒教会の総主教座が置かれていたのがこの大聖堂です。
アルメニアの国教(301年~)ともなっているキリスト教の一派。合性論の立場をとる非カルケドン派正教会に属し、信者は世界で500万人ほど。他教会における総主教のことはカトリコスと呼ぶ。
アルメニア正教会と呼ばれることもあるが、ギリシャ正教やロシア正教といった東方正教会のグループではないことに注意。
イスタンブールのアヤ・ソフィアの修復を手掛けた伝説的建築家のトゥルダト(Trdat)による設計で、アニの最盛期にあたるスムバト2世の治世下の989年に建設が始まり、1010年までには完成したとされます。
3アプス(後陣)式で、横幅34.3×奥行21.9mとかなりの大きさ。元々はドームがあり38mの高さがありましたが、現存していません。
セルジューク朝のスルタン、アルブ・アルスラーンがアニを征服した後はモスクへと変えられ、勝利のモスク(Fethiye Camisi)と呼ばれるようになりました。
マヌーチェヒルのモスク(Mosque of Minuchihr)
1072年に建てられたモスクで、現存する最古のセルジューク朝の建築物。
1064年にセルジューク朝のスルタン「アルブ・アルスラーン」がアニを支配した後、クルド人のシャッダード朝のマヌーチェヒル(Minuchihr)に支配権が移りました。その彼が最初に建てたモスクと言われています(彼はまたアニの街を再建した人物として知られる)。
ミナレットはほぼ無傷のまま今に至り、北側にはクーフィー体(Kufic)のアラビア文字で「ビスミッラー(神の御名において)」と書かれています。
【接近不可】シルクロード橋
アルメニアとの国境を流れるアルパ川にかかるシルクロード橋。
9世紀に建造された橋で、かつてはアナトリアへ続くシルクロードと続いていたため、シルクロード橋と呼ばれています。
橋は2階建てとなっており、1階部分がキャラバンの通行用、2階部分は歩行者や兵士の通行用でした。
オスマン帝国末期のアルメニア人虐殺をめぐり、現在は国交断絶状態にあるトルコとアルメニア。国交回復とともにシルクロード橋も修復され、この橋を渡って国境越えができる日々が来るのを夢見てしまいますね。
【接近不可】乙女の修道院(Monastery of Virgins)
11世紀前半~13世紀に建てられたと考えられている修道院。
「乙女の修道院」という名前は、聖フリプシメ(Saint Hripsime)という修道女にちなんでつけられました。
シタデル(城塞) ※コース折り返し地点
アニの南西部の丘に位置するシタデル(城塞)。
7世紀にアニを支配していたカムサラカン朝の時代から存在していたとされ、カムサラカン朝および続いてアニを支配したバグラトゥニ朝の王族の住居だったと考えられています。
シタデルの内側にはいくつかの建物の跡がありますが(宮殿の教会、王子の霊廟、アブハヌムの教会)、どれも原形をとどめていません。
このように保存状態は悪いシタデルですが、アニの大パノラマを楽しむには絶好のポイントです。
また次に説明する乙女の城が見えるのもシタデルから。見逃さないようにしましょう!
【接近不可】乙女の城(Virgin castle / The church of Kizkale)
シタデルのさらに南にある乙女の城。トルコ語ではキズカレ(Kizkale)とも呼ばれます。
1735年までにはアニは完全に放棄されたと言われていますが、その最後の修道士が住んでいたとされるのがこの城。アルパ川に囲まれた断崖絶壁に建っているため破壊を免れており、他の史跡より保存状態は良いです。
建築年ははっきりしていませんが、10世紀後半と考えられています。
アブール・ムアメランのモスク(Mosque of Abu’l Muammeran)
11世紀後半に建てられたモスク跡。
20世紀初頭に崩壊してしまいましたが、ミナレットの一部と思われる“ネジのようなもの”が放置されている様は、これはこれで風情があるというもの。写真で見るより巨大で存在感があります。
崩壊前の姿は先述のマヌーチェヒルのモスクに似ていたようですが、こちらの方がより高く大きかったようです。
ゾロアスター教の寺院(Fire Temple)
ササン朝時代の1~4世紀に建てられたと考えられている拝火神殿(Ateşgede)の跡。拝火神殿とは火を崇拝するゾロアスター教(ササン朝の国教)において祈祷を行う場所を指します。
アニの中では最古の遺跡ですが、現在残っているのは直径1.3メートルほどの円柱が4本のみ。
聖ステファノス教会(ジョージア教会 / Georgian Church)
グルジア正教会の教会跡(北側の壁面のみ)。
グルジア人(ジョージア人)がアニの街を初めて征服した1161年から1218年までの間に建てられたと考えられています。
セルジューク朝のキャラバンサライ
セルジューク朝時代の12世紀に建てられたキャラバンサライ(隊商宿)跡。元々は10世紀に建てられたアレクレトス教会(Arekletos Church)の一部として建設されました。
冠門の装飾はセルジューク朝オリジナルのデザインを反映したものです。
アブガムレンツ教会(Abughamrents Church / Poladoğlu Church)
グレゴール・パフラヴニ王子の命により一族のプライベート用に980年前後に建てられた教会。
パフラヴニ家はバグラトゥニ家の前にアニを統治していたカムサラカン家から派生した一族。のちにアニのビザンツ帝国への編入に反対した派閥のリーダーでした。
外壁は12角形をしていますが、内部は6葉のクローバーの形をしているというユニークな建築物。外観ではアニ遺跡で最も保存状態が良い建物で、建っているのもアラジャ川とボスタンラル渓谷を見下ろすかなりの“一等地”です。
【接近不可】洞窟住居跡
先述のアブガムレンツ教会の北に広がるアラジャス川の断崖には、青銅器時代の洞窟住居跡が残されています。
バードハウスや貯蔵庫なども見つかっているようです。
ガギク王の教会(King Gagik’s Church)
アニの最盛期だった1001~1005年に、バグラトゥニ朝の王ガギク1世の命によって建てられた教会跡。ガギカシェン(Gagikashen)や聖グレゴリウス教会とも呼ばれます。
現在のアルメニアにあったズヴァルトノツの大聖堂(7世紀に建てられるも10世紀の地震により崩壊)を再現することを目的としていました。四葉のクローバー状の内陣が特徴的。
建築家はイスタンブールのアヤ・ソフィアの再建とアニ大聖堂の建設を手掛けたトゥルダト(Trdat)です。
ちなみにガギク1世はバグラトゥニ朝アルメニア最盛期の王。トルコ南東部のヴァン湖に浮かぶアクダマル島の教会にも彼のレリーフが残っています。
詳しくは次の記事をご参照ください。
セルジューク宮殿(Seljuk Palace)
アニ遺跡内の最北に位置するのがセルジューク宮殿。
こう呼ばれるのは入り口のデザインが由来ですが、ほとんど詳しいことはわかっていないようです。
かつて入口は細かい象眼細工が施されたパネルで敷き詰められていたのですが、19世紀にはそのほとんどが失われてしまったと文献に書かれています。これはこの宮殿がアルメニア王国のバグラトゥニ朝のものだと勘違いしたアルメニア人によって盗まれてしまったため。
実際は建設されたのはバグラトゥニ朝時代ではなく、それ以降のセルジューク朝時代の1064年あるいは12世紀後半~13世紀と言われています。
建物自体の用途もわかっていませんが、富豪や王子、聖職者などの住居だったと考えられています。商人のティグラン・ホーネンツ(先述)の墓が付近の崖に彫られていることから、彼の住居だった可能性もあるようです。
元々は3階建てでしたが木造だったため損傷が激しく、現存するのは1階のみです。
その現存部分もほとんどが20世紀に修復されており、“真新しさ”が漂っているのは否めません。
本来の様式を無視した再建だったようで、「アニのレイプ」とまで揶揄されているとか・・・
【アクセス情報】カルスからアニ遺跡まではバスで1時間
カルスの中心部にある「Mix Point」というカフェの前から往復の大型バスが運行しています。
1日1本で、朝10時発、帰りはカルスを13:30発です。往復20リラ。1時間弱で到着するので現地では2時間半ほど観光できます。
アニ遺跡自体の入場料は40リラ。遺跡の入口前にはカフェもあります。
私の場合はゆっくり見て周って2時間半キッカリという感じでした。時計回りルートの折り返し地点であるシタデルで全体の40%目くらいなので、観光ペースを考える際にご参考にしてください。
Have a Nice “TIME” Trip ! (^^)
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